頭でっかち

「凍りのくじら」を読んだ。辻村深月先生。

どうでもいいけれど、僕はあんまり読了って言葉を使わない。

なんだか読書家を気取っているような気がする。

鼻に付くというか、なんというか。

この辺は好みの問題だし、自分は使わないってだけ。

話を戻そう。

僕は読書というものが実は非常にニガテなのかもしれない。

スコシフシギなんだと、僕は思った。

作中、繰り返し、誰も信じないかもしれないが、とあった。

実際、主人公理帆子と別所あきらの出逢いにはなかなかの不思議だ。

テキオー灯と彼の存在に理解、というか、受け入れることに時間がかかった。

父親が、少し不思議な形で理帆子を助ける。

存在自体が都合の良いというか。

だが、わからないでもない。

僕も、他人と頭の中でよく会話する。

友人、先生、すれ違った他人まで。

多くは、会話の再現だ。

こう言われたから、ああ返せばよかったという風に。

自分の中で一度会話を煮詰める。

こうして書きながら、「凍りのくじら」を理解しようとしているフシもある。

不思議な話。小説のなかにリアルとか、物理法則とか、科学信仰を持ち込むこと自体非常にナンセンスなのは分かっていても、戸惑う。

そう生きていたから。面倒な話である。

だからこそ、僕は読書家でもないし、批評家でもない。

物語を通して、自分を見つけて、自分語り。

メンドーな男だ。

少しは中身に触れよう。

辻村深月先生ーー先生というのはあえてだ。

の作品は初めて読んだ。

彼女の欠片がそこかしこに見つかる作品。

ドラえもんを本当に好きではないと生まれない作品。

かっこいいと思う。

自分のルーツが、まだよくわからない僕から見たら素晴らしいと感じる。

大槻ケンヂ氏の「サーチライト」とは別の光だ。テキオー灯は。

思わず連想したが、違うに決まっている、照らすものが違うから。

サーチライトが道筋なら、テキオー灯は人を照らすもの。

また、愛を感じる作品だった。

親から子への愛、子から親への愛。

友人への愛、恋人への愛。他人への愛。

愛に満ちた作品だと思った。

様々な形の愛が、この少し・フシギな世界を形作っている。

そんな世界に僕は魅せられた。

完全な余談だが、僕はドラえもんの道具の中で「親友テレカ」が1番好きである。

推敲は面倒なのでしない。書きたいことは書いたのでこの辺で。