すこし、不思議に触れて

映画館にどうもうまく足を運べない。

星の巡り合わせなのか…。

たまたま人と会ったり、上映時間に間に合わなかったり。

なかなか計画通りにいかないものだ。

そういう訳で、「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」を自宅で観ることにした。

ドラえもん映画を観るのは非常に久し振りで、観る動機としても、

「凍りのくじら」で言及されていたからである。あとテキオー灯が見たかった。

さて、少し中身に触れよう。

といっても、「どう?海底冒険楽しかった?」に尽きるのであろう。

楽しく観れた。この歳で見るもんだから、

カメレオン帽子の超空間に置いてけぼりを食らったらどうなるのかとか、

無粋な事が頭をよぎった。無粋というか、考えちゃうもんは仕方ない。と思いたい。

突っ込みたいのではなく、単純な知的好奇心。

「地獄があるなら、きっとこんな感じよ」

しずかちゃんの言葉が、頭に残る。

放射能を通さないを目的とした、バミューダのバリアの内側はまさに地獄だろう。

何隻もの沈没した船たち、内側で膨れ上がっていく抑止力…。

核というものを人類はこれほどまでに恐れている。

行き着く先は核というか。力が膨れ上がったら、核になる。

それは現在でも続いている。

他には、海底鬼岩城は別にメインじゃなくて、彼らの海底の冒険であると理解するのにちょっと時間が必要だった。

深海自体説明や深海魚について、深海にも食物連鎖が存在する事も描いていた。

意外とこの歳になっても勉強になる事がぎっしりと詰まっている。

面白かった点は、バギーちゃんの映像記録がビデオテープであること、三色コードだし。時代を感じる。

他には、車が文句言うなんて10年早いぞってセリフがあった。

残念だが、10年経っても車は文句を言ってはくれない。

どうなのかな、最新のカーナビは言ってくれたりするのかしら。

車の自動ブレーキ機能なんかはある種の文句かもしれない。

おいおい気をつけろよだなんて意味で。

さて、まとめに入ろう。

海底人に胸を張って会えるように、僕は多分こうして、知った後、ガチャガチャ打鍵しているのだと思う。

よりよく生きていくために。

とりあえずやせた猫の絵でも描こう。

内と外の人

すべてがFになるを読んだ。森博嗣先生著。

ミステリをきちんと読み始めたのはここ一年くらいの話で、

頭の中で推理を行いながら謎に挑戦するなんてことは今まであまりしてこなかった。

想像の範疇外のことを想像しても仕方がないというか、

とにかく、右から左へ。ストーリーやキャラクターに魅力を感じることはあれど、

トリックは流していた。

密室殺人自体にあまり興味を持てなかったというのもある。

事実昨年の冬から挑戦してきたものは全て日常の謎ばかりだった。

そんな自分が手に取った理由は、探偵役の犀川先生が煙草とコーヒーが好きだから。というもの。

あきれたもので自分と共通認識があるから読み始めた。不純。

ただ、本当に楽しめた。

無い知恵を絞り、何故、何故、何故を追う。

今作の特徴なのかな、探偵もワトソンも自分の思考を言語化してくれる。

推測の域を出ないことを話さない賢者は多い中で、これは非常に惹きこまれた。

登場人物によって、浅い考えを一気に同じ状態まで引き上げてもらう。

置いてけぼりも薄かった。

探偵すごーいと、外野から囃し立てるのではなく、近くにいながら、及ばなかったと感じることができる。

「天才だ。まさに、天才」という作中のセリフがある。

天才というものを節々に扱う作品だ。

読者である自分の視点では誰も彼も天才だ。

そんな天才に凡人である自分に近づくことまでは出来る。

その差はまだ凄まじいものだけど。

差すら感じられないよりはマシだ。これは僕の個人的な感情だが。

 

そんな気持ちになる作品でした。

天才は孤独だ。しかし天才も人間だ。

天才だって、寂しいとも思うとかなんとか考えていた自分はまだまだだ。

理解、共感、の出来る天才もいれば、まったく範疇外の天才もいる。

それだけは凡人も天才も同じ。

そんなことをふと思い出した。

 

 

クリエイターはどこだ?

タイトルのセリフが好きです。

スターフォックス64の敵キャラのセリフ。何故だか非常に印象に残っている。

それはさておき。

創作ってなんやろうな。

現実逃避だったり、作品創んないと死ぬぜってッて人もいるし。

創らなければの人もいるし、神聖化はぼくも嫌い、というか、

そんな高い位置にモノづくりを置きたくないというか…

強迫観念のせいだったりもするんですが。

高尚なものに自分が関われるわけがないみたいな、ね。

端的に言えば、それは継続する物事としては非常に不適当。

だから

今の自分にしっくりくるのが、自分の為に作ってる、なんです。

これは、いつかおまんま食うためとか、頭は磨かないと、役に立ってくれなかったりだとか。

そういうものも含まれていますが。

読者が~とか、いいんですよ。今は。そんな大層な人間でもないしね。

いいんですか?と聞かれたらいいんですよと答える。そんな人間であるために。

かたが~き

誰にでもできることを、私はやる。

雑務、、だれもやりたくないことを、私はやる。

それは、やりたいこととか、そうじゃなくて、今は、それしかできないから。

いつかきっと、私より得意なスーパーマンが現れて、私の居場所はないかもしれない。

それでも、かじりつくしか、今はできねー。

むなしかったり、悔しかったり、自分がヤになるけど、それでもやる。

これは無駄じゃないとか、そういう、上向きの話じゃなくて、

齧りつくことが、今できる、俺の、グーだから。

アントマン&ワスプを見たよん。

親という存在について考える。

親、親…産んでくれた人。

家族はあくまで他人で、責任の生じる他人。だと、思わなくはない。

だから、あんまり酔えない。

家族のために、娘の為に、妻の為に、僕にはあんまり共感できない。

10代の思春期とかのツマンネー拗ねた感情を引きづってるのかもしれないけれど、サムいんだ。悲しいことに。

利害の一致とかなしに他人と協力するがニガテ。

ううむ、まだまだ、未熟者って感じ。

実際、今回観た映画、「アントマン&ワスプ」を見て、一番に思ったことは、

護るものが増えると、人間大変だなぁと思った。

娘、友人、仲間…彼も自分の世界を護っている。

素直にかっこいいと思った。

僕は、自分の世界を護りたい。他人のような親も、友人も。

虐殺器官」のウィリアムズのように、彼ほど立派なものじゃないけれど、僕はぼくの理不尽の世界を護るために、これからも生きていく。

 

 

15分後の俺へ、後は任せた。

人の一日の持ち越すことのできる考えは98%で、残りの2%は別のことを新しく入れる余地があるらしい。

2%ごと、新しい自分に入れ替えて、どんどん自分という人間をよくしていきましょうというのが、今回の議題。

出典はどこの哲学なのかは謎。調べても出てこんし、気にはなる

さて、98%が今日の自分。

じゃあ、2%は。

その2%を書きに来た。

意味のない、15分かもしれない、ただもがいているだけで、なんにも残らないかもしれない

結果というよりプロセス、この残した散文が、いつか僕の灯台になってくれることを祈って。

 

…ここまで書いたけど、非常に薄っぺらい。

ここからの課題ですネ。

ああ、ネガティブなことは書かないほうがいいって聞いたな。

自己啓発のようなことはあまり性に合わんのだが。

大事らしいので、続けよう。

かの衛宮士郎だって、何年も、無意味ともいえる修行をやってきたわけで、

これが俺のグーで、トレースで、Time alterなわけですよ。

15分も書いたかしらん?

そういうわけで、じゃ。

頭でっかち

「凍りのくじら」を読んだ。辻村深月先生。

どうでもいいけれど、僕はあんまり読了って言葉を使わない。

なんだか読書家を気取っているような気がする。

鼻に付くというか、なんというか。

この辺は好みの問題だし、自分は使わないってだけ。

話を戻そう。

僕は読書というものが実は非常にニガテなのかもしれない。

スコシフシギなんだと、僕は思った。

作中、繰り返し、誰も信じないかもしれないが、とあった。

実際、主人公理帆子と別所あきらの出逢いにはなかなかの不思議だ。

テキオー灯と彼の存在に理解、というか、受け入れることに時間がかかった。

父親が、少し不思議な形で理帆子を助ける。

存在自体が都合の良いというか。

だが、わからないでもない。

僕も、他人と頭の中でよく会話する。

友人、先生、すれ違った他人まで。

多くは、会話の再現だ。

こう言われたから、ああ返せばよかったという風に。

自分の中で一度会話を煮詰める。

こうして書きながら、「凍りのくじら」を理解しようとしているフシもある。

不思議な話。小説のなかにリアルとか、物理法則とか、科学信仰を持ち込むこと自体非常にナンセンスなのは分かっていても、戸惑う。

そう生きていたから。面倒な話である。

だからこそ、僕は読書家でもないし、批評家でもない。

物語を通して、自分を見つけて、自分語り。

メンドーな男だ。

少しは中身に触れよう。

辻村深月先生ーー先生というのはあえてだ。

の作品は初めて読んだ。

彼女の欠片がそこかしこに見つかる作品。

ドラえもんを本当に好きではないと生まれない作品。

かっこいいと思う。

自分のルーツが、まだよくわからない僕から見たら素晴らしいと感じる。

大槻ケンヂ氏の「サーチライト」とは別の光だ。テキオー灯は。

思わず連想したが、違うに決まっている、照らすものが違うから。

サーチライトが道筋なら、テキオー灯は人を照らすもの。

また、愛を感じる作品だった。

親から子への愛、子から親への愛。

友人への愛、恋人への愛。他人への愛。

愛に満ちた作品だと思った。

様々な形の愛が、この少し・フシギな世界を形作っている。

そんな世界に僕は魅せられた。

完全な余談だが、僕はドラえもんの道具の中で「親友テレカ」が1番好きである。

推敲は面倒なのでしない。書きたいことは書いたのでこの辺で。