内と外の人

すべてがFになるを読んだ。森博嗣先生著。

ミステリをきちんと読み始めたのはここ一年くらいの話で、

頭の中で推理を行いながら謎に挑戦するなんてことは今まであまりしてこなかった。

想像の範疇外のことを想像しても仕方がないというか、

とにかく、右から左へ。ストーリーやキャラクターに魅力を感じることはあれど、

トリックは流していた。

密室殺人自体にあまり興味を持てなかったというのもある。

事実昨年の冬から挑戦してきたものは全て日常の謎ばかりだった。

そんな自分が手に取った理由は、探偵役の犀川先生が煙草とコーヒーが好きだから。というもの。

あきれたもので自分と共通認識があるから読み始めた。不純。

ただ、本当に楽しめた。

無い知恵を絞り、何故、何故、何故を追う。

今作の特徴なのかな、探偵もワトソンも自分の思考を言語化してくれる。

推測の域を出ないことを話さない賢者は多い中で、これは非常に惹きこまれた。

登場人物によって、浅い考えを一気に同じ状態まで引き上げてもらう。

置いてけぼりも薄かった。

探偵すごーいと、外野から囃し立てるのではなく、近くにいながら、及ばなかったと感じることができる。

「天才だ。まさに、天才」という作中のセリフがある。

天才というものを節々に扱う作品だ。

読者である自分の視点では誰も彼も天才だ。

そんな天才に凡人である自分に近づくことまでは出来る。

その差はまだ凄まじいものだけど。

差すら感じられないよりはマシだ。これは僕の個人的な感情だが。

 

そんな気持ちになる作品でした。

天才は孤独だ。しかし天才も人間だ。

天才だって、寂しいとも思うとかなんとか考えていた自分はまだまだだ。

理解、共感、の出来る天才もいれば、まったく範疇外の天才もいる。

それだけは凡人も天才も同じ。

そんなことをふと思い出した。